2010.02.02 Tuesday
twitterで
「途中から死後の世界だ」「夢だ」とか、そういう解釈は、呑み屋で、さんざん聞いた。あと「子供の教育に良くない」とかさ。もう10人以上から聞いた。
そんな陳腐な解説は飽きた。
『崖の上のポニョ』の話だ。
テレビで放映するらしいから、同じことが繰り返されると退屈になるので、書いとくよ。
そもそも、アニメーションは全て夢だし、死後の世界なの。
自由に物語れば物語るほど、それは公のものではなく個のものになる。
公というのは共通項で、自由からほど遠い。
自由でありたいと望んでも、それだと伝わらない。だから、公の文法にあわせる。
あわせるつもりがなくても、公に生きる部分の自分がでしゃばってくる。
そうすると、わかりやすい共有されたルールに縛られた展開になる。
どんどん公に近づくことで、最後は、みんな納得、ありがたい教訓の物語になるわけだ。
アニメーションの本質は「絵が動く」ということだ。絵が動く快楽。それは、本当は物語から遠い。
物語というのは因果を紡ぐことだから、自由ではいられない。自由に展開すれば、デタラメで、破綻していて、分からないものになる。
物語の快楽というものもあるので、アニメーションは「動く快楽」に「物語の快楽」を付け加えた。
「アニメーションは子供が観るもの」という先入観のために、わかりやすい教訓話の物語が量産される。公の軸に針が振れる。
もちろん、今ではアニメーションも多様化し、そうではない物語もいくつかある。
ということを前提に。
宮崎駿ぐらいになると、成功したこともあるし、圧倒的なアニメーション(絵が動くという喜び)の力を持っているので、わかりやすい物語の快楽におもねる必要はない。
個を描くことができる。
世俗に併せたストーリーテリングなど必要ない。動きの快楽を追求するためには、それは不要どころか、邪魔にすらなる。
動きの快楽だけを追求すればいい。
だから、宮崎駿作品の物語は、個の追求に向かう。そして「動きの喜び」という担保(というのは言葉が悪いか)があるために、それを純粋に遂行できる。
公のわかりやすい物語展開から逃れて、個の物語を、そのまま表現しようとすれば、それは社会的なルールや公のルールから逃れた夢に近くなる。死後の世界に近くなる。
だから、夢だといったり死語の世界だという指摘は、解釈ではない。
個の自由さが表現された、そのなかに身勝手に都合の良いルールを見いだして分かった分かったと言ってるにすぎない。
物語で「夢落ちはダメ」と言われるのは、いくらでも勝手な展開ができるからだ。
だから夢だとか死語の世界だとか言って勝手に解釈するのって(ポニョに限らず)、よっぽど新しい発見がないかぎりつまらないので、やめといてよ。
おもしろい解釈は楽しいけど、「分かりたい」という欲望に従属して、たくさんの豊かなものを削り落とす陳腐な理屈は、つまらないと思う。
『崖の上のポニョ』は、そのまま素直に見るのが楽しい。アニメーションなんだから「わーっ動いている!」って感じで、理屈を添えないで身を任せて。まあ、最初のシーンで「ぐあーたくさん動くぅぅ!」って泣いてるヤツの戯言だがな。はははー、だ。ってつぶやいたことに関する補足。
「途中から死後の世界だ」「夢だ」とか、そういう解釈は、呑み屋で、さんざん聞いた。あと「子供の教育に良くない」とかさ。もう10人以上から聞いた。
そんな陳腐な解説は飽きた。
テレビで放映するらしいから、同じことが繰り返されると退屈になるので、書いとくよ。
そもそも、アニメーションは全て夢だし、死後の世界なの。
自由に物語れば物語るほど、それは公のものではなく個のものになる。
公というのは共通項で、自由からほど遠い。
自由でありたいと望んでも、それだと伝わらない。だから、公の文法にあわせる。
あわせるつもりがなくても、公に生きる部分の自分がでしゃばってくる。
そうすると、わかりやすい共有されたルールに縛られた展開になる。
どんどん公に近づくことで、最後は、みんな納得、ありがたい教訓の物語になるわけだ。
アニメーションの本質は「絵が動く」ということだ。絵が動く快楽。それは、本当は物語から遠い。
物語というのは因果を紡ぐことだから、自由ではいられない。自由に展開すれば、デタラメで、破綻していて、分からないものになる。
物語の快楽というものもあるので、アニメーションは「動く快楽」に「物語の快楽」を付け加えた。
「アニメーションは子供が観るもの」という先入観のために、わかりやすい教訓話の物語が量産される。公の軸に針が振れる。
もちろん、今ではアニメーションも多様化し、そうではない物語もいくつかある。
ということを前提に。
宮崎駿ぐらいになると、成功したこともあるし、圧倒的なアニメーション(絵が動くという喜び)の力を持っているので、わかりやすい物語の快楽におもねる必要はない。
個を描くことができる。
世俗に併せたストーリーテリングなど必要ない。動きの快楽を追求するためには、それは不要どころか、邪魔にすらなる。
動きの快楽だけを追求すればいい。
だから、宮崎駿作品の物語は、個の追求に向かう。そして「動きの喜び」という担保(というのは言葉が悪いか)があるために、それを純粋に遂行できる。
公のわかりやすい物語展開から逃れて、個の物語を、そのまま表現しようとすれば、それは社会的なルールや公のルールから逃れた夢に近くなる。死後の世界に近くなる。
だから、夢だといったり死語の世界だという指摘は、解釈ではない。
個の自由さが表現された、そのなかに身勝手に都合の良いルールを見いだして分かった分かったと言ってるにすぎない。
物語で「夢落ちはダメ」と言われるのは、いくらでも勝手な展開ができるからだ。
だから夢だとか死語の世界だとか言って勝手に解釈するのって(ポニョに限らず)、よっぽど新しい発見がないかぎりつまらないので、やめといてよ。
おもしろい解釈は楽しいけど、「分かりたい」という欲望に従属して、たくさんの豊かなものを削り落とす陳腐な理屈は、つまらないと思う。






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