2010.01.31 Sunday
「それでも出版社が「生き残る」としたら」:たけくまメモを読んだ。
「いっぱい、いるよ!」と思わず言ってしまう。
自分の書いたものぐらい責任負うよ。
もちろん、竹熊さんの書く「最後まで責任を負える」の意味と、ぼくが考えている「責任負う」の意味がズレているだけかもしれない。
にしても、責任負うつもりで書いている人はたくさんいるだろう。
「紙の本」という物理的なパッケージがあるので、製版→印刷→製本→取次→書店というプロセスがあって、その窓口として出版社は必要な存在だった。そのプロセスが必要のない電子出版になって「出版社不要論」が出てくる。
が、電子出版の時代になっても、出版責任の代行業としての出版社は生き残るのではないか。
という流れの中で、上記のような記述が出てくる。
もちろん
>著作権問題や猥褻問題、名誉毀損
といった問題は法律が関わってくる。
そういうところで、こじれて、知識や技能的な問題が出てくれば、行政書士や司法書士や弁護士や税理士や、適した人を探して、助けてもらえばいい。
最初から酷く危険がわかってるジャーナリスティックなことをやってる人は、こじれる前に、その手をうっておけばいい。でも、そのリスク管理を「出版社」に任せなくてもいい。
というよりも「出版責任の代行業」だけをやる会社は、出版社である必要がない。
知識・技能的なヘルプは必要とするものの、書いたことに関する責任は自分で負うと考えている人は多いのではないか。
さらに論は
>編集者は、弁護士や税理士のような役割になる
って展開するのだけど、ええええええ。
今から、編集をやりたい人は、弁護士になるような専門的な勉強を積むのだろうか。司法試験受けるために法科大学院修了するのだろうか。
弁護士や税理士のような役割をするのは、編集じゃなくて、そういうことに適した弁護士や税理士や行政書士がやるほうがいい。
編集者がやることは、そういうときに適した人を見つけてくる、ということでいいんじゃないだろうか。
そう。
未来の編集者は、言葉通り「集めて編むこと」をやる人になる。
それは「テキストを集めて、編む」ということでもあるし「人を集めて、編む」ということでもある。
たとえばtwitterには少なくとも300人ぐらい大のインコ好きがいるらしい(以下、大のインコ好きの友達から聞いた話を元に構成した)。
日本のTwitterユーザーが、いま450万人(国内ユーザー450万人? 「Twitter」のいまが知りたい)として大雑把に換算すると大のインコ好きは1万人。
そこで、編集者が、インコ・コミュニティの中で、誰かに文章を書いてもらったり、インコの飼い方本を作る人を集めたりする。
そういうことは、これからのネット社会ではどんどん行われるようになってくるはずだ。
それが編集の仕事だ。
もちろん、テキストを集めて、編むだけじゃない。
人を集めて、編むのも大切な仕事だ。
インコ好きは、デザインの優れた鳥カゴがないことに不満を持ってる人が多いらしい。鳥カゴを作ってる人と、プロダクトデザイナーを見つけて出会ってもらう。そうやって、インコ好き向けの鳥カゴを作ってもらうのも、編集の仕事だ。集めて編むのだ。
インコイベントをやるのもいい。そのための出演者を集めたり選んだり、適したイベント会場を見つけたり、興味のある人にイベントのことを伝える方法を考えたり。
いままでは、紙の本を作り出す過程をサポートする人を編集者と呼んでいた。
でも、これからは、さまざまなコミュニティの中で、テキストやモノや映像や人を集めて編むことが、編集の仕事になると、ぼくは考えている。
インコ編集者、スカートが少しめくれてる萌え編集者、森ガール編集者、廃墟編集者、こっくりさん編集者、さまざまなコミュニティの中で、編集をやる人が出てくる。
出版社・書店といった業種的な縦割り(製作側の都合)だけではなく、趣味嗜好の横割り(受け取り側の都合)で、編集や販売の場が機能する。
出版業界は、20年間にわたって「2兆円産業」だったが、今年は1兆9300億円台に落ち込む可能性があると報じられた(2009年にな、結果どうだったんだろう?)。
それ以外にも、出版業界衰退のデータは、毎日のように伝えられる。
だが、それは過去の尺度での出版だ。過去の出版業界だ。
いまからの数年間は、出版業界の中に閉じ込められていた編集という仕事が、あらゆるところに拡散することになるだろう。
進化できなければ出版社のほとんどは生き残れないだろう。だが、出版は生き残る。死ぬわけがない。(このあたりのことについては、「未来に向けて発想する」:日経ビジネスAssocie発想コロコロ塾に詳しく書いた)
1983年に発売されたファミコンが大ヒットして、ゲーム開発者の数は激増した。
今年2010年は、出版界の1983年だ。勃興の年だ。
キンドルやiPadがファミコンであると予言するわけじゃないが、この数年に出てくるシステムがファミコンのように大きく世界を変える。
電子書籍が普及することで、紙の束としての本も不要な役割から解放されて、よりよい方向に進むだろう。固定化された情報としての存在意義を高め、スローであることの利点を活かしたメディアとなるだろう。
ぼくは、テレビゲーム勃興期ぎりぎりのタイミングで、ゲーム開発者になった。
モノゴトが凄いスピードで変化していった。やることのほとんどが新しい体験だった。
上司や先輩が抑圧的に働くことのない未開の地が無限にひろがっていた。
ぼくがコンパイルに入社したとき、企画職はひとりもいなかった。初の企画職として、ぼくはゲーム会社に入った。だから、自分の手で自分がやることを見つけ、作り出していった。
それは、ものすごくエキサイティングな体験だった。
勃興期はおもしろい。
そして、いま、出版が勃興期を迎える。
そう考えているから、「編集・ライター養成講座実践クラス」の専任講師をすることにした。講師をするというより、講座の場を未来の出版として機能させたいと考えているのだ。
大袈裟な? いや、そんなことはない。
未来の出版は、ほんとうに小さなコミュニティでも可能になって、いたるところから生まれてくるだろう。
そして、おそらく、それは「出版社」とは呼ばれない新しい何かだ。
余談。
未来の編集者のもうひとつの仕事は、書くという孤独な作業を助けることだ。
こちらは、たけくまメモに書かれてある
>これからは著者が編集者や営業マンを雇う時代になるかもしれない
という部分と通じるところかもしれない。
もしくは、編集者と作家が組んで作品を生み出すというスタイルが生まれてくると思う。
マンガの世界では編集者が作品に大きく影響を与えるスタイルで書く場合もある。そういう仕事はこれからも必要だろう。
でも、それはサラリーマン的な、外部にいる編集者ではなくて、ずっと作家によりそう、作家とともに歩む人になってくると思う。
「有限会社よつばスタジオ」が
現実問題として、自分の書いた(描いた)ものに、本当の意味で最後まで責任を負える著者が、どれだけいるというのでしょうか。って書いてあって、ちょっと驚く。
「いっぱい、いるよ!」と思わず言ってしまう。
自分の書いたものぐらい責任負うよ。
もちろん、竹熊さんの書く「最後まで責任を負える」の意味と、ぼくが考えている「責任負う」の意味がズレているだけかもしれない。
にしても、責任負うつもりで書いている人はたくさんいるだろう。
「紙の本」という物理的なパッケージがあるので、製版→印刷→製本→取次→書店というプロセスがあって、その窓口として出版社は必要な存在だった。そのプロセスが必要のない電子出版になって「出版社不要論」が出てくる。
が、電子出版の時代になっても、出版責任の代行業としての出版社は生き残るのではないか。
という流れの中で、上記のような記述が出てくる。
もちろん
>著作権問題や猥褻問題、名誉毀損
といった問題は法律が関わってくる。
そういうところで、こじれて、知識や技能的な問題が出てくれば、行政書士や司法書士や弁護士や税理士や、適した人を探して、助けてもらえばいい。
最初から酷く危険がわかってるジャーナリスティックなことをやってる人は、こじれる前に、その手をうっておけばいい。でも、そのリスク管理を「出版社」に任せなくてもいい。
というよりも「出版責任の代行業」だけをやる会社は、出版社である必要がない。
知識・技能的なヘルプは必要とするものの、書いたことに関する責任は自分で負うと考えている人は多いのではないか。
さらに論は
>編集者は、弁護士や税理士のような役割になる
って展開するのだけど、ええええええ。
今から、編集をやりたい人は、弁護士になるような専門的な勉強を積むのだろうか。司法試験受けるために法科大学院修了するのだろうか。
弁護士や税理士のような役割をするのは、編集じゃなくて、そういうことに適した弁護士や税理士や行政書士がやるほうがいい。
編集者がやることは、そういうときに適した人を見つけてくる、ということでいいんじゃないだろうか。
そう。
未来の編集者は、言葉通り「集めて編むこと」をやる人になる。
それは「テキストを集めて、編む」ということでもあるし「人を集めて、編む」ということでもある。
たとえばtwitterには少なくとも300人ぐらい大のインコ好きがいるらしい(以下、大のインコ好きの友達から聞いた話を元に構成した)。
日本のTwitterユーザーが、いま450万人(国内ユーザー450万人? 「Twitter」のいまが知りたい)として大雑把に換算すると大のインコ好きは1万人。
そこで、編集者が、インコ・コミュニティの中で、誰かに文章を書いてもらったり、インコの飼い方本を作る人を集めたりする。
そういうことは、これからのネット社会ではどんどん行われるようになってくるはずだ。
それが編集の仕事だ。
もちろん、テキストを集めて、編むだけじゃない。
人を集めて、編むのも大切な仕事だ。
インコ好きは、デザインの優れた鳥カゴがないことに不満を持ってる人が多いらしい。鳥カゴを作ってる人と、プロダクトデザイナーを見つけて出会ってもらう。そうやって、インコ好き向けの鳥カゴを作ってもらうのも、編集の仕事だ。集めて編むのだ。
インコイベントをやるのもいい。そのための出演者を集めたり選んだり、適したイベント会場を見つけたり、興味のある人にイベントのことを伝える方法を考えたり。
いままでは、紙の本を作り出す過程をサポートする人を編集者と呼んでいた。
でも、これからは、さまざまなコミュニティの中で、テキストやモノや映像や人を集めて編むことが、編集の仕事になると、ぼくは考えている。
インコ編集者、スカートが少しめくれてる萌え編集者、森ガール編集者、廃墟編集者、こっくりさん編集者、さまざまなコミュニティの中で、編集をやる人が出てくる。
出版社・書店といった業種的な縦割り(製作側の都合)だけではなく、趣味嗜好の横割り(受け取り側の都合)で、編集や販売の場が機能する。
出版業界は、20年間にわたって「2兆円産業」だったが、今年は1兆9300億円台に落ち込む可能性があると報じられた(2009年にな、結果どうだったんだろう?)。
それ以外にも、出版業界衰退のデータは、毎日のように伝えられる。
だが、それは過去の尺度での出版だ。過去の出版業界だ。
いまからの数年間は、出版業界の中に閉じ込められていた編集という仕事が、あらゆるところに拡散することになるだろう。
進化できなければ出版社のほとんどは生き残れないだろう。だが、出版は生き残る。死ぬわけがない。(このあたりのことについては、「未来に向けて発想する」:日経ビジネスAssocie発想コロコロ塾に詳しく書いた)
1983年に発売されたファミコンが大ヒットして、ゲーム開発者の数は激増した。
今年2010年は、出版界の1983年だ。勃興の年だ。
キンドルやiPadがファミコンであると予言するわけじゃないが、この数年に出てくるシステムがファミコンのように大きく世界を変える。
電子書籍が普及することで、紙の束としての本も不要な役割から解放されて、よりよい方向に進むだろう。固定化された情報としての存在意義を高め、スローであることの利点を活かしたメディアとなるだろう。
ぼくは、テレビゲーム勃興期ぎりぎりのタイミングで、ゲーム開発者になった。
モノゴトが凄いスピードで変化していった。やることのほとんどが新しい体験だった。
上司や先輩が抑圧的に働くことのない未開の地が無限にひろがっていた。
ぼくがコンパイルに入社したとき、企画職はひとりもいなかった。初の企画職として、ぼくはゲーム会社に入った。だから、自分の手で自分がやることを見つけ、作り出していった。
それは、ものすごくエキサイティングな体験だった。
勃興期はおもしろい。
そして、いま、出版が勃興期を迎える。
そう考えているから、「編集・ライター養成講座実践クラス」の専任講師をすることにした。講師をするというより、講座の場を未来の出版として機能させたいと考えているのだ。
大袈裟な? いや、そんなことはない。
未来の出版は、ほんとうに小さなコミュニティでも可能になって、いたるところから生まれてくるだろう。
そして、おそらく、それは「出版社」とは呼ばれない新しい何かだ。
余談。
未来の編集者のもうひとつの仕事は、書くという孤独な作業を助けることだ。
こちらは、たけくまメモに書かれてある
>これからは著者が編集者や営業マンを雇う時代になるかもしれない
という部分と通じるところかもしれない。
もしくは、編集者と作家が組んで作品を生み出すというスタイルが生まれてくると思う。
マンガの世界では編集者が作品に大きく影響を与えるスタイルで書く場合もある。そういう仕事はこれからも必要だろう。
でも、それはサラリーマン的な、外部にいる編集者ではなくて、ずっと作家によりそう、作家とともに歩む人になってくると思う。
「有限会社よつばスタジオ」が
あずまきよひこ作品の制作・ディレクション・著作権管理、ならびに企画・デザイン・書籍編集・広告制作・文章制作などを行う会社であるような、そういったタイプの組織は増えてくるだろう。






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