2010.01.25 Monday
twitterで以下のようなやりとりをした。
他にもたくさんリアクションをもらったけど、twitterではなかなか書ききれないから、ブログに書こうと思うけど、時間がない。
このあたりのことは、去年の講座でさんざん喋ったので、頭の中であるていどまとまっているのだが。講義用メモは、公にするほど文章が整ってないし……。
と思ってたら、2006年9月号(4年近く前だ!)の『本の雑誌』新刊めったくたガイドに、読みのレベル」について書いていたので、載せておく。
『本の雑誌』2006年9月号の新刊めったくたガイド
永井荷風『つゆのあとさき』の書き出し“女給の君江は午後三時から”の「女給の君江は」にひっかっかる。単に、君江は、と書き出してよいのではないか?
林芙美子『放浪記』に出てくる“いまは切ない私である”“荒みきった私だと思う”といった表現にひっかかる。
横光利一『機械』の書き出し“初めの間は私は私の家の主人が狂人ではないのかと”の二つの「私」にひっかかる。
『小説の読み書き』(岩波書店七四〇円)の中で、小説家佐藤正午は、表現の、ある部分にひっかかる。こだわる。そのひっかかりを掘り下げていく。そして、小さなひっかかりが、その小説家の書き方全体に関わってくる。そういう問題であることがわかってくる。小説のどこを切っても、その作者の顔が出てくるのだ。
ここで掘り下げられているのは取り上げられた大作家の顔であると同時に、小説家佐藤正午の顔でもある。
佐藤正午は、最初の項で「書く」ことは「書き直す」ことと同じだと言う。書くことの実態は、様々な候補から言葉を選び(つまり、頭の中で書いては捨て書いては捨てを繰り返し)、最終的に選び取ったものを書くことだからだ。そして、“読むことによってさらに小説は書き直される”のだと宣言する。
名作を「正しい読み」などで固定化する試みではなく「読者の数だけ書かれる小説としての読み」のひとつを提示してくれるからこそ、本書はユニークでおもしろい。
と感じた後に“正しく文学と出会い、正しく文学を読む十講”なんて帯を見ると、なんてデタラメな惹句だと思ってしまう。が、その帯がつけられた書物、
大塚英志『初心者のための「文学」』(角川書店一二〇〇円)は、「正しい読み」などが展開されるわけじゃなく、大塚英志独自の読みが展開されていて、エキサイティングだ。と書くと誤解を招きそうなので、あわてて記すが、強引で自分勝手な読みが凄いんだよぉーという感想では、もちろんない。ユニークな読みを、意志と説得力を持って、書いている。
ぼくは、「読み」は自由で「読みのレベル」などないと考えているが、「書く」ことは自由ではなく「書きのレベル」は存在すると思っている。それは読むことは個人で収まる作業だけど、書くことは相手を必要とする作業だからだ。どれだけ説得力を持つのか。どれだけ愉快なのか。どれだけ人の心を動かすのか。といった書きのレベルはどうしても存在する(から、こうやって新刊の紹介を書くことを、ぼくは苦しみながら楽しむのだ)。
“かつてサルトルは、アフリカで子供が飢えているときに文学に何ができるかと問うたが、米軍包囲下のファッルージャで、あるいはイスラエル軍侵攻下のパレスチナで、イラク人やパレスチナ人の命など虫けらほどの価値もないかのように日々、人々が殺されているこのとき、いったい文学に何ができるのかという問いは、アラブ文学に携わる私自身の痛切な思いでもある”
という書き出しではじまる
岡真理『棗椰子の木陰で 第三世界フェミニズムと文学の力』(青土社二二〇〇円)は、アラブ文学を軸にした思索だ。
私たちが文学を読むとき、いかようにも読みうるという権利を可能にしているものは何なのか、という問い。を、佐藤正午や大塚英志の自由闊達な読みに接した後に突き付けられて衝撃的だった。
そもそもテクストは私に向かって語りかけているのか。私は正統な読者たりえるのか。この本で挙げられるアラブ文学をぼくは一冊も読んでない。フスハーという文語アラビア語とアーンミーヤという口語アラビア語が排他的かつ補完的に用いられていることも、本書を読んで初めて知った。本書は、そういった無知の上で、読むことによってさらに書き直すことが、暴力的に何かを傷つける可能性を示唆する。
村瀬学『自閉症−これまでの見解に異議あり!』(ちくま新書七二〇円)は、もちろん自閉症についての本なのだが、本書で問題になっているのは、研究者側の「自閉」である。決まり切った尺度(診断基準)で見てしまうこと。そのこと自体が研究者側の「自閉」である、と本書は従来の自閉症概念を批判する。
「読む側」が「読まれる側」を、その行為に置いて傷つけている可能性を、自閉症というテーマで本書は記している(とも読める)。
自分とは別な存在として「自閉症」を論じる研究者を、研究者の症状として批判する項など悪ノリのように感じられるほどだが、痛烈でもある。
だが、だとしたら、この後、ぼくたちは、どのように関係性を結ぶべきなのか。「自閉」の問題が特定の人たちだけの問題ではないことを、はっきりと本書は示す。
『ビッグバン宇宙論』(青木薫訳/新潮社一六〇〇円)は、サイモン・シンの最新刊。翻訳サイエンス・ドキュメンタリィって、読みたくもない著者のワイフの話とかが導入になってたりするものが多いのは何故って思ってたけど、サイモン・シンの本は、まったく違う。この人は、面白いことしか書かない。面白いこと、大切なことを、どのように構成して、どのようなタイミングで、どんなふうに書くと、読者が知的に興奮するかを計算しつくして書く。
長嶋康郎『古道具ニコニコ堂のなんとなくコレクション』(新紀元社一七〇〇円)は、古道具店「ニコニコ堂」に集まった風変わりなモノたちの写真とエッセイ。ザブングルの手、ちびたエンピツたくさん、洗った百円札、オリジナル軍人将棋、セミのぬけがら、フランスの下着、わからないもの……。そんなものたちが売られている、素敵だ。
古屋兎丸『ライチ☆光クラブ』(太田出版一二八〇円)は、飴屋法水主宰「東京グランギニョル」の舞台を原案とした漫画。工場、廃墟、バロック、美少年、学生服、秘密基地、赤い森、軍服、闇! 闇! 闇! 闇! ゼラ! 闇! 狂おしい耽美なる世界! 驚愕! 戦慄! 興奮! なんというグランギニョルだ!! 美しき少年たちの残酷劇を! はぁはぁ。興奮しすぎてまともな説明ができませんが、ゼラ! ゼラ! ゼラ!
以上。
岡真理『棗椰子の木陰で 第三世界フェミニズムと文学の力』は、刺激的な本だったなぁ。また読もう。
toyozakishatyou
作品を遠くまで運ぶ「面白い誤読」と、作品を貶めるだけの「ダメな誤読」があると思う。「最低限ここまでは理解できていないと」という読みのボトムラインはあると思う。 #shohyoron
yonemitsu
語るときにはボトムラインは生じるが、「読みのボトムライン」など存在しないと考えます。自由に読めばいい。
toyozakishatyou
んー、伝わってないな。自由に読めばいいのは当たり前なんですよ。 #shohyoron
toyozakishatyou
瓶があって、最低限、その小説が「こう読んでほしい」(たとえば、『煙滅』がe抜きで書かれているとか)というのがボトムラインで。瓶の栓ぎりぎりのところにそれがあるわけじゃない。
ボトムラインから栓のとこまでには空間がちゃんとあって、そこに「面白い誤読」や「ダメな誤読」が忍びこむ余地があるっていうことなんです。 あー、でも、ごめんなさい。これ以上反論いただいても今すぐ返事ができません。また後でね、米光さん。 #shohyoron
yonemitsu
小説が「こう読んでほしい」というボトムラインより上には読みの自由があるが、それより下はダメだということは、読みの自由は制限されているということなのでは。
小説が「こう読んでほしい」という読み方以外でも、ぼくはまったく構わないと思う。日本語の形っておもしろいなという枕草子の楽しみ方もある。この紙、気持ちいいーでも、いい。語るときにボトムラインは生じるけど読みには、読みは全くの自由だ。 #shohyoron
yonemitsu
過去のつぶやきで、もう見失ったのだけど。「ダメなのは、ぼくは何を読んでも読みのボトムラインに達してないからだな」というつぶやきがあったので、その人に向けて書いています。読みのボトムラインなんてない。楽しく読めたのなら、それがあなたの読みであり、それがあなたの読んだ作品です。
*読みやすくするために改行等少し整えています。
他にもたくさんリアクションをもらったけど、twitterではなかなか書ききれないから、ブログに書こうと思うけど、時間がない。
このあたりのことは、去年の講座でさんざん喋ったので、頭の中であるていどまとまっているのだが。講義用メモは、公にするほど文章が整ってないし……。
と思ってたら、2006年9月号(4年近く前だ!)の『本の雑誌』新刊めったくたガイドに、読みのレベル」について書いていたので、載せておく。
永井荷風『つゆのあとさき』の書き出し“女給の君江は午後三時から”の「女給の君江は」にひっかっかる。単に、君江は、と書き出してよいのではないか?
林芙美子『放浪記』に出てくる“いまは切ない私である”“荒みきった私だと思う”といった表現にひっかかる。
横光利一『機械』の書き出し“初めの間は私は私の家の主人が狂人ではないのかと”の二つの「私」にひっかかる。
ここで掘り下げられているのは取り上げられた大作家の顔であると同時に、小説家佐藤正午の顔でもある。
佐藤正午は、最初の項で「書く」ことは「書き直す」ことと同じだと言う。書くことの実態は、様々な候補から言葉を選び(つまり、頭の中で書いては捨て書いては捨てを繰り返し)、最終的に選び取ったものを書くことだからだ。そして、“読むことによってさらに小説は書き直される”のだと宣言する。
名作を「正しい読み」などで固定化する試みではなく「読者の数だけ書かれる小説としての読み」のひとつを提示してくれるからこそ、本書はユニークでおもしろい。
と感じた後に“正しく文学と出会い、正しく文学を読む十講”なんて帯を見ると、なんてデタラメな惹句だと思ってしまう。が、その帯がつけられた書物、
ぼくは、「読み」は自由で「読みのレベル」などないと考えているが、「書く」ことは自由ではなく「書きのレベル」は存在すると思っている。それは読むことは個人で収まる作業だけど、書くことは相手を必要とする作業だからだ。どれだけ説得力を持つのか。どれだけ愉快なのか。どれだけ人の心を動かすのか。といった書きのレベルはどうしても存在する(から、こうやって新刊の紹介を書くことを、ぼくは苦しみながら楽しむのだ)。
“かつてサルトルは、アフリカで子供が飢えているときに文学に何ができるかと問うたが、米軍包囲下のファッルージャで、あるいはイスラエル軍侵攻下のパレスチナで、イラク人やパレスチナ人の命など虫けらほどの価値もないかのように日々、人々が殺されているこのとき、いったい文学に何ができるのかという問いは、アラブ文学に携わる私自身の痛切な思いでもある”
という書き出しではじまる
私たちが文学を読むとき、いかようにも読みうるという権利を可能にしているものは何なのか、という問い。を、佐藤正午や大塚英志の自由闊達な読みに接した後に突き付けられて衝撃的だった。
そもそもテクストは私に向かって語りかけているのか。私は正統な読者たりえるのか。この本で挙げられるアラブ文学をぼくは一冊も読んでない。フスハーという文語アラビア語とアーンミーヤという口語アラビア語が排他的かつ補完的に用いられていることも、本書を読んで初めて知った。本書は、そういった無知の上で、読むことによってさらに書き直すことが、暴力的に何かを傷つける可能性を示唆する。
「読む側」が「読まれる側」を、その行為に置いて傷つけている可能性を、自閉症というテーマで本書は記している(とも読める)。
自分とは別な存在として「自閉症」を論じる研究者を、研究者の症状として批判する項など悪ノリのように感じられるほどだが、痛烈でもある。
だが、だとしたら、この後、ぼくたちは、どのように関係性を結ぶべきなのか。「自閉」の問題が特定の人たちだけの問題ではないことを、はっきりと本書は示す。
『ビッグバン宇宙論』(青木薫訳/新潮社一六〇〇円)は、サイモン・シンの最新刊。翻訳サイエンス・ドキュメンタリィって、読みたくもない著者のワイフの話とかが導入になってたりするものが多いのは何故って思ってたけど、サイモン・シンの本は、まったく違う。この人は、面白いことしか書かない。面白いこと、大切なことを、どのように構成して、どのようなタイミングで、どんなふうに書くと、読者が知的に興奮するかを計算しつくして書く。
以上。
岡真理『棗椰子の木陰で 第三世界フェミニズムと文学の力』は、刺激的な本だったなぁ。また読もう。






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